LOGIN月曜日の昼休み、私は佐伯さんにスマホの写真を見せた。
薄い青のカーテン。
窓辺のクラゲ。
グラスに挿したミモザ。
佐伯さんは画面を見て、しばらく黙った。
「……いいじゃん」
「本当ですか」
「うん。いい」
いつもより少しだけ柔らかい声だった。
「でも」
「でも?」
「花瓶を買いな」
予想通りの言葉に、私は笑ってしまった。
「やっぱり言うと思いました」
「グラスでも悪くないけど、せっかくなら花瓶があると楽しいよ」
「花瓶って、どんなのがいいんでしょう」
「知らない」
「知らないんですか」
「私も毎回適当に買ってる。でも、適当に買ったものが案外残る」
佐伯さんはアイスコーヒーを飲んだ。
「高いやつじゃなくていい。小さいのでいいから、自分の部屋に合うのを探してみれば」
自分の部屋
カフェの扉を開けると、焼き菓子の甘い香りがふわりと漂ってきた。 店内には落ち着いた音楽が流れ、木製のテーブルがゆったりと配置されている。壁際の棚には古い本や小さな雑貨が並び、窓から差し込む午後の日差しが床に柔らかな模様を作っていた。「いらっしゃいませ。お二人ですか?」「はい」 店員さんに答えると、窓際の二人席へ案内された。 向かい合って座り、メニューを開く。写真で見た季節のケーキのほかに、スコーンやタルトもあって、思っていた以上に種類が豊富だった。「迷いますね」 私が呟くと、朝倉さんが笑った。「藤崎さん、来る前から何を食べるか決めていたんじゃないんですか?」「一応、季節のケーキにしようと思っていたんです。でも実物を見ると、タルトもおいしそうで」「それなら、両方頼んで分けますか? 僕も甘いものは好きなので」「朝倉さん、甘いものがお好きなんですね」「はい。結構好きですよ。ただ、一人で店に入るとコーヒーだけで済ませることが多いので、今日はいい機会です」 思いがけない答えに、私は少し笑った。「じゃあ、今日は遠慮なく頼めますね」「もちろんです。僕も楽しみにしていましたから」 結局、私は季節のフルーツケーキ、朝倉さんは洋梨のタルトを注文した。飲み物は私が紅茶、朝倉さんはブレンドコーヒー。 店員さんが離れると、私は店内をゆっくり見回した。「写真で見た通りのお店で、安心しました」「僕は写真より好きかもしれません。木の床が少しきしむところとか、棚の本がきれいに揃いすぎていないところとか、実際に来ないと分からない雰囲気がありますね」「確かに。本も自由に読めるみたいです」「何か気になる本がありましたか?」「料理の本が何冊か。帰る前に見てみたいです」「いいですね。僕も少し見てみようかな」 そう話していると、朝倉さんの視線が棚の一角で止まった。 そこには、少し古いボードゲームの箱が並んでいた
土曜日の午後一時半。 私は駅のホームに立ち、スマホで時間を確認した。 朝倉さんとの待ち合わせは午後二時。ここから二駅だから、少し早めに着くことになりそうだった。 今日は朝から落ち着かなかった。 いつも通り朝食を食べ、洗濯物を干し、部屋の掃除も済ませた。それなのに、出かける支度を始める頃には、何度も時計を確認してしまった。 服は、淡いブルーのブラウスに紺色のスカートを選んだ。 先日、一緒に喫茶店へ行った時とは違う組み合わせだ。鏡の前で何度か確認し、最後に小さなイヤリングをつけた。 別に、特別なおしゃれをしたわけではない。 でも、朝倉さんに会うのだから、少しはきれいにしていきたい。 そう思って服を選ぶ時間が、楽しかった。 電車がホームに滑り込んでくる。 私はバッグを持ち直し、車内へ乗り込んだ。◇◇◇◇ 待ち合わせの駅に着いたのは、午後一時四十五分だった。 改札を出ると、休日らしく何組かの人が待ち合わせをしていた。家族連れや学生らしい二人組、スマホを見ながら誰かを待つ人。 私は少し離れた場所に立ち、朝倉さんへメッセージを送ろうか迷った。 まだ十五分ある。 急かすようになるのも申し訳ないし、約束の時間まで待っていればいい。 そう思ってスマホをバッグに戻した時だった。「藤崎さん」 聞き慣れた声に振り向く。 朝倉さんが、改札の向こうから歩いてきた。 白いシャツに薄手のネイビーのジャケット。普段より少しきちんとした服装で、片手には小さなバッグを持っている。 いつものカメラバッグではなかった。「こんにちは。早かったんですね」「こんにちは。少し早めに出たつもりだったんですが、藤崎さんの方が先でしたね」 朝倉さんは笑いながら、腕時計を見た。「まだ十五分ありますし、慌てなくてもよかったのに」「私も少し早く着いてしまったんです。電車の時間がち
洗濯物を畳み終える頃には、部屋の時計は午後十時に近づいていた。 私はクローゼットへ衣類をしまい、明日の仕事の準備を済ませた。 いつもと変わらない月曜日の夜だった。 けれど、今度の土曜日には約束がある。 朝倉さんと、午後二時に待ち合わせる。 そう考えると、自然に頬が緩んだ。 何を着ていこう。 カフェでは何を頼もう。 写真で見た季節のケーキもおいしそうだったけれど、焼き菓子も気になる。 そんなことを考えているうちに、ふと手が止まった。 こんなふうに誰かと会う日を楽しみにするのは、いつ以来だろう。 悠斗と付き合い始めた頃は、私も休日の予定を楽しみにしていた。 どこへ行こうかと話し、服を選び、待ち合わせの時間を何度も確認した。 あの頃は、会えるだけで嬉しかった。 特別な場所へ行かなくてもよかった。仕事帰りに待ち合わせて、駅前の店で夕飯を食べるだけでも楽しかったし、帰り道に少し遠回りをするだけで、もう少し一緒にいられることが嬉しかった。 それがいつの間にか、休日は一緒に生活を回す日になっていた。 買い物へ行き、足りないものを補充し、掃除をして、食事を作る。時々出かけることもあったけれど、私の頭の中には帰宅後の夕飯や翌日の準備がいつも残っていた。 あの時間が全部嫌だったわけではない。 楽しかった日も、嬉しかったことも確かにある。 ただ、いつからだろう。 誰かと過ごす予定を楽しみにするより、その予定をうまく終わらせることを考えるようになったのは。 私は畳み終えたタオルが収まった棚を見つめた。 もう、あの頃のことを一つずつ責めたいわけではない。 悠斗との時間を、全部間違いだったことにしたいわけでもなかった。 私が好きだった気持ちも、二人で笑った時間も本当だったのだと思う。 でも、好きだったからこそ、私は少しずつ無理をするようになっていた。 相手が困らないように。
返事が届いたのは、メッセージを送ってから二十分ほど経った頃だった。 私はちょうど洗濯物を畳んでいて、テーブルの上でスマホが震える音に顔を上げた。 画面には、朝倉さんの名前が表示されている。 自分から送ったのだから返事が来る可能性は分かっていたけれど、実際に名前を目にすると、思っていた以上に緊張した。 私は手に持っていたタオルを畳み終え、洗濯物の山の上に置いてからスマホを取った。 もし、都合が悪かったら。 誘われたこと自体が負担だったら。 そんな考えが頭をよぎる。 断られる可能性があることは、送る前から分かっていた。だからといって、怖くないわけではない。 私は画面を開いた。『こんばんは。こちらこそ、先日はありがとうございました。お誘いいただけて嬉しいです。今度の土曜日なら午後から時間があります。ぜひご一緒させてください』 読み終えた瞬間、肩の力が抜けた。 そして、自然に笑みがこぼれた。 朝倉さんが、私の誘いを受けてくれた。 それだけではなく、誘われて嬉しいと言ってくれている。 私はその一文を、もう一度読み返した。『お誘いいただけて嬉しいです』 丁寧で、朝倉さんらしい言葉だった。 けれど今は、その丁寧さの奥に、彼自身の気持ちがあるように思えた。 先日、喫茶店で話した時もそうだった。 朝倉さんは、私と普通に話してみたいと思っていたと言ってくれた。展示や写真の話だけではなく、何でもない時間を一緒に過ごしたかったのだと。 そして今日、私が誘ったことも喜んでくれている。 私だけが、また会いたいと思っていたわけではない。 そう分かったことが、胸の奥を温かくした。◇◇◇◇ 私はカフェの案内ページをもう一度開き、場所と営業時間を確認した。 土曜日の午後なら、ちょうどいい。 写真で見た雰囲気は素敵だったけれど、実際に行ってみたら想像と違うかもしれない。週
月曜日の昼休み、私はスマホの画面を眺めながら、少しだけ悩んでいた。 表示しているのは、会社から電車で二駅ほど離れた場所にある小さなカフェの紹介ページだった。 古い建物を改装した店らしく、木製の家具と大きな窓が印象的だった。写真には焼き菓子や季節のケーキが並んでいて、休日には軽いランチも出しているらしい。 気になったのは、窓際にある二人掛けの席だった。 朝倉さんと行った喫茶店とは雰囲気が違うけれど、ここなら落ち着いて話せそうだと思った。 先週末、朝倉さんと別れる時に交わした約束。 今度は私から誘ってもいいですか。 朝倉さんは、ぜひ、と答えてくれた。 あの時は自然に言えたのに、いざ本当に誘おうとすると、少し緊張する。 まだ数日しか経っていない。 早すぎるだろうか。 でも、せっかくなら今度の週末に行ってみたい。 私は画面を閉じたり開いたりしながら、何度目か分からないため息をついた。「藤崎さん、何か難しい案件ですか?」 顔を上げると、森下さんが立っていた。「あ、ううん。仕事じゃないの」「そうなんですね。すごく真剣なお顔だったので」 森下さんは隣の椅子に座り、持ってきたお茶をテーブルに置いた。 私は少し迷ってから、スマホの画面を見せた。「このお店、どう思う?」「カフェですか? 素敵ですね。誰かと行くんですか?」「……うん。まだ誘ってないんだけど」 そこまで答えると、森下さんが私の顔を見た。 そして、少しだけ目を見開く。「もしかして、朝倉さんですか?」「どうして分かったの?」「藤崎さん、今ちょっと照れてます」「そんなに分かりやすい?」「はい。でも、いいと思います」 森下さんは笑いながら、スマホの写真へ目を戻した。「ここ、雰囲気もよさそうですし、駅から近いみたいですね。何よ
会計を済ませて喫茶店を出ると、午後の日差しは少し傾き始めていた。 店内ではあまり意識しなかったけれど、外へ出ると空気が少し涼しい。私はバッグの持ち手を直し、朝倉さんと並んで書店の方へ歩き出した。「今日はありがとうございました」 私が言うと、朝倉さんは首を横に振った。「こちらこそ。突然誘ってしまいましたけど、来ていただけてよかったです」「最初は少し驚きました」「そうですよね。書店で偶然お会いしただけでしたから」「でも、嬉しかったです。前から行っていた喫茶店なのに、今日はまた違う楽しさがありました」 そう答えると、朝倉さんは少し照れたように笑った。「そう言っていただけると、誘った甲斐があります」 私たちは信号の手前で足を止めた。 向かいの歩道には買い物帰りらしい人がいて、近くの花屋では店員さんが店先のバケツを片づけ始めている。 いつもと変わらない休日の午後。 その景色の中で、私はさっきまでの会話を思い返していた。 朝倉さんが、私と普通に話してみたかったと言ってくれたこと。 自分から誘ったのだから、気にしなくていいと言ってくれたこと。 どちらも、私には嬉しかった。◇「また、あのお店に行きたいです」 信号が青に変わって歩き出した時、私は自然にそう言っていた。「そうですね。また機会があれば」 朝倉さんは穏やかに頷いた。 私はその返事を聞きながら、少しだけ考えた。 また機会があれば。 便利な言葉だと思う。 次の予定を決めなくてもいいし、相手に負担をかけることもない。社交辞令として使うこともできるし、本当に次を楽しみにしている時にも使える。 以前の私なら、そこで会話を終わらせていただろう。 相手が次の予定を提案してくれるまで待つ。自分から誘って断られたらどうしようと考え、曖昧な言葉の中に気持ちをしまっていたと思う。 でも、今日は少し
土曜日だった。 本当なら少し遅くまで寝ていたい日なのに、私はいつもの時間に目が覚めた。 隣を見る。 ベッドは空だった。 私はぼんやり身体を起こし、リビングへ向かう。 悠斗はソファでスマホを見ていた。 「あ、おはよ」 「おはよう」 カーテンの隙間から朝の光が差し
結局その日、私は一人でラーメンを食べて帰った。 本当はもっと洒落たものでも食べようと思っていた。 せっかく外食する気分だったし、少しくらい贅沢してもいいかなって。 でも店を探す気力がなくなってしまった。 駅前のラーメン屋に入り、カウンター席へ座る。「ご注文どうされますか?」「あ、醤油ラーメンで」 店員に答えながら、自分でも少し驚く。 私は本当は塩派だ。 でも悠斗が醤油好きだから、気づけば家でも醤油ばかり作るようになっていた。 私は箸を持ったまま、ぼんやり湯気を見つめる。 好きなもの。 最近、自分の『好き』がよく分からない。 ラーメンを食べ終えて店を出ると、夜風が少
翌日の朝、私は少し寝坊した。 目を覚ますと時計は七時十分を指している。「……やば」 慌てて起き上がる。 いつもならもう朝食を作り始めている時間だった。 私は急いでキッチンへ向かう。 でもそこには思っていた光景がなかった。 悠斗が一人でコーヒーを淹れていた。
写真を閉じたあとも胸のざわつきは消えなかった。 私はソファに座ったまま、ぼんやりスマホを握りしめる。 居酒屋の明るい照明。 楽しそうな笑い声が聞こえてきそうな写真。 その端に映っていた悠斗。 私の前で見せる顔とは少し違って見えた。 なんでだろう。 笑っていただけなのに。







